応援メッセージ
元新党さきがけ・元大蔵大臣 武村正義
今こそ「さきがけ」の志を
私が代表を務めていた「新党さきがけ」が立ち上げた国民向けの政治・政策勉強会「さきがけ塾」。そこに通ってきた中原君に出会ったのは彼が25歳の時でした。あれから23年。
「利権政治ではなく、政策での政治を!」と訴えた「新党さきがけ」の「志」をいまだに持ち続けながら、吉川市の市長として活躍している中原君の姿を頼もしく、また嬉しく思います。
当時、「さきがけ」は理念の一つに「地方分権」の推進を掲げていましたが、時代は今、まさに地域が主役。それぞれの地域がそれぞれの特徴を活かした「まちづくり」を展開してゆくためには、市民の皆さんの「知恵と行動」、そして中原君のような「理想を掲げ、真っ直ぐに進む芯のあるリーダー」が必要です。
1994年に発行した私の著書「小さくともキラリと光る国・日本」をいまだに大事に持ち、「先生が滋賀県知事時代に標榜した、身近なところに政治があり、みんなで考え、みんなで汗をかき行動する『自治の県政』『草の根県政』が僕の市政運営のお手本です」と言う中原君。
今後も「市民と行政の共動」の理念を胸に、頑張って欲しいと思います。
飯舘村長 菅野典雄
までいの村からのエール
「政治家は次の世代のことを考え、政治屋は次の選挙のことを考える」という言葉があります。吉川市長 中原恵人氏は正に政治家であり、その見本といってもよいでありましょう。「子どもは未来からの留学生」でありますから、子どものことを頭から離すことなく、次の世代の為に今の自分に何が出来るか、為すべきかを常に心の隅に置いておられる市長さんだなと常に敬服申し上げているところです。
また今回、「マニフェスト大賞・コミュニケーション戦略賞」の優秀賞受賞と聞いております。賞の名前は戦略賞ということだそうですが、中原市長には戦略などという考え方は全くないのではと私は思っています。
行政の長として、市民にどう分かりやすく伝えるか、さらに市民にどう参画していただけるかの土壌環境を作っていくことは、とても大切なことです。ある意味でこれからの時代、自治体の首長にとって最も大事な資質であり、要素でもありましょう。
したがって、戦略というより、むしろもって生まれた心の中に宿っている、あるいは育ててこられた中原市長の人柄であり、人間性そのものに対する賞ではないかと思います。
先日、私が支持者から贈られた「公正無私」の言葉に大変、興味をもたられたことでも、その思いの程を知ったところです。市長の心の中には、「生きているということは、誰かに借りをつくること。生きてゆくということは、その借りを返していくこと」の強い思いが内在されていることなのでしょう。
若さあり、行動力あり、さらに先見性の上に人としての優しさをあわせ持った中原恵人氏を選ばれた吉川市民の民意の高さに、羨ましさもあり妬みさえ覚える程です。
終わりに、「共動」の精神を吉川市の皆さんと中原市長が共により強く共有され、吉川市がますます他から羨望の市になりますよう心よりお祈り申し上げます。
吉川市議会議員 戸田かおる
吉川が変わる時代を共に
「最近毎朝駅に立ってる男の人がいるんだよね、タスキかけて」 「え?何?何やってるの?」 「選挙に出るって言ってたと思う…」 8年前のある日の、私達夫婦の会話です。その「毎朝駅に立っている男の人」と「私」に、まさか「ご縁」があるとは……
その時には想像もしませんでした。
遡ること20数年前。
私の父親は、市議会議員選挙出馬の為の準備を数年かけて進めていました。 ポスターなど全ての準備が整って、「さあ、あと1か月で選挙本番!」というところで、病による父の急死。
父親が亡くなった悲しみと喪失感は大きいものでした。
また、父の市議会議員選挙出馬に向け、家族で数年間かけて地道に取り組んできた全てが、その時一瞬にして崩れ去ったことで、さらにいいようのない虚しさが、家族の中に生まれました。
「突然の父の死」と「選挙」が切り離せず、「選挙はもうこりごり」……と、 その後、「選挙活動」というものから、距離をとっていました。 その父の死から12年。 幼なじみから私のもとへ一本の電話があり、私はその「毎朝駅に立っている男の人」のもとへ向かうことになったのです。
その「男の人」こそが、現吉川市長の「中原恵人」氏であり、電話の幼なじみは中原氏の奥様だったのです。
この時の「中原恵人」氏との出会いが、私の意識を大きく変えることになりました。
「父の死」に対する気持ちが清算出来ていなかった私は、選挙に関わることをとてもためらいましたが、ちょうどその時、東日本大震災が発生。日本全体の価値観や生き方が問われた状態の中で、私が「中原恵人」氏に出会ったのは、何か大きな意味がある……と。
12年間、「父の死=選挙」という意識を変えられなかった私でしたが、この大きな流れに関わることは、私の使命だという考えに至り、再び「選挙活動」というものに目を向けることとなったのです。
この出会いにより、私の中に生まれた「自分自身の生きる役割を見つめなおす」という意識が、現在の私の活動の原点となりました。
県議となった中原氏は、とにかく現場に向かい、市民の声に耳を向け、常に情報を発信し、これまでの吉川市にはいなかった政治家として、勢力的に活動を展開しました。そして私は政策秘書としてその活動をサポートしはじめたのです。
そうした中、中原氏は「会合に出て挨拶するだけが政治家ではない」、「市民との共動こそが大事だ」と、「NEXT吉川」(市民と政治家の「共動」によるまちづくりを実現する会)を立ち上げました。
そして、その「NEXT吉川」での勉強会やイベントを通じ、これまで政治に関心が薄かった層にも「政治こそがまちづくり」という意識が浸透し始め、若いパパやママ、そして若者が「政治」に対する考え方を大きく変えていくさまは、驚くものがありました。
中原氏のこうした行動は、まさに「吉川改革のフロンティアである」と誰もが感じたことでしょう。そしてその結果、この「市民との共動」という活動の中から、多くの市議会議員が生まれたのです。
私もその中のひとりであり、2016年の市議会議員選挙では、新人ながら1539もの票をいただき、トップ当選という形で議会へと送り出していただきました。
父が亡くなってから17年の春でした。
8年前、初めて中原氏に会ったあの日、まさか私が、市議会議員として吉川市のまちづくりに関わることになるとは夢にも思いませんでした。
けれど、思い出すのは、出会って間もない頃の中原氏からの一言。
「君の、人や物事へのその前向きな姿勢は政治家に向いているよ」
まだそれほど共に活動していない中で、また、父の話もしていない中で、「何を言い出すんだこの人は…」と、その時は驚きましたが……
中原氏は何かを私の中に見て取っていたのかもしれません。 人生何が起きるか分からないものです。
今では、自分の子供達が「ふるさと」として育っていくこの「まち」の「未来づくり」に、母親として、また女性としての視点を持ちながら、市議会議員として積極的に関われるキッカケをいただいたことをとても感謝しています。
今後も、私の活動理念「小さな声にも耳を澄ます政治を」を胸に、師であり同志でもある中原恵人吉川市長と共に、「価値ある未来」を創り出す一員として、全力を尽くしていきたいと思います。